エンジニアになった経緯


※ 本ページはプロモーションが含まれています。

こちらのページではエンジニアになったきっかけを書いています。
2025/05 まだ記事を書き慣れていない頃に書いた駄文ではありますが、自分用の備忘録を兼ねて当時の駄文のまま残してます。

読んでいただけると嬉しいです。

2回の大きな挫折

私がエンジニアになったきっかけとして、2回の大きな挫折経験は切っても切り離せない関係にあります。なので、そこから書いていこうと思います。

文章がめちゃくちゃかもしれませんが、お許しください。

私のエンジニアになるまでの大きな出来事をまとめると以下のようになります。

学生時代の大きな挫折

学生時代に大きな挫折「不登校」を経験しました。

不登校をバネに全国大会出場

不登校という大きな挫折をバネに努力を重ね、最終的には県代表として書道の全国大会に出場しました。

プログラミングとの出会い

大学時代のある授業をきっかけに、プログラミングへ興味を持つようになりました。

国立大学を中退

「プログラミングを仕事にしよう」と決意し、大学を中退し情報系の専門学校へ入学します。

就職活動での大きな挫折

学歴が中退である事を理由に、就職活動で大きな挫折を経験しました。

以下より、詳しい内容を書いていこうと思います。最後まで読むのに5分程度かかるかもしれません。もしお時間に余裕のある方はお付き合いいただけると嬉しいです。

学生時代の大きな挫折

学生時代の大きな挫折

あなたには挫折した経験がありますか?

私には大きな挫折経験があります。そして1つは2度と取り返しのつかない学生時代の出来事に関してです。

それは高校2年生の時。

進学校への入学と失敗

(自分で言うのはアレなのですが)私は高校時代、県で最も入学が難しい名門高校の学生の一人でした。

苦労の末なんとか入学できた自分。

しかし、県で最難関の進学校に入学できたは良いものの、そこで私は勉強についていけなくなり落ち込み、全てが嫌になり、高校2年生の最後の方はついに教室に通う事ができなくなった経験があります。

長い時間をただ過ごす

家族は私に「勉強しろ」しか言わず、相談できる雰囲気でもなかったので、当時は学校に通ったふりをして、教室には行かずに校内の専用相談室で長い時間を過ごしていました。

いわゆる「不登校部屋」と言うやつです。あなたの学校にもありましたか?

それとも、そんな部屋があることを意識した事すらないでしょうか?

その部屋は個室で、毎日意味もなく、ももクロのライブ動画やお笑いのYoutubeチャネルを見たりして、ただ1日時間を潰していました。

同級生は一生懸命勉強して、更には学生らしい楽しい思い出をみんな作っている時に、私は相談室にこもってももクロの動画を見ていました。

そして、毎日泣いては動画を見て…という日々の繰り返し。あれは、今までの全ての時間を振り返ってみても一番思い出したくない時間の一つです。

特に辛かったこと

特に一番辛かったのは修学旅行の時間。自分の頭の悪さに悩み、自分を責め、本当は旅行に行く余裕すらない精神状態なのに、親に「修学旅行いかない」とも言えず、行かなくてはならなかったので、なんとか行きました。

なんとか行ったは良いものの、旅行中に腹痛を理由に何度もトイレに籠るという事をしていました。

2番目に辛かったのは、同級生のLINEのアイコン。

何人かが仲間内でディズニーランドに行った写真をアイコンに設定しているのに対し、私はそんな余裕もなく、勉強もせず楽しい思い出もなく相談室に行き来する日常。その周りと自分との対比が本当に情けなさすぎて毎日泣いていました。

「なぜ、両親は私に勉強の才能を授けてくれなかったんだろう?」

「なぜ他の皆にはあって、私にはないんだろう?」

そう、考えても仕方ない事を堂々巡りでずっとずっと考えていました。

そして、そんな落ち込んでばかりいた私でも唯一続けていた事がありました。それのおかげで事態は一変しました。

唯一続けていたこと

私が唯一続けていたこと。

それが書道という部活です。

高校2年の終わり頃、教室には通っていませんでしたが、書道の部室にだけはちゃんと通っていました。

というのも、他の女子高生がやっていたような、学校帰りにみんなで街に出かけたり〜とか、プリクラを撮りに行ったり…とかそのような予定がなかったんですね。勉強の予定も。

私は他にする事もなく時間だけはあったので、書道の部室に自然に足が赴いていました。振り返ってみても、高校2年生の本当に多くの時間を書道の部室で過ごしたと思います。

心境の変化

「勉強では才能のある人たちには敵わない。自分が成果を出せるような他の分野は何か」

そう考えながら通っていた、書道部は、いつの間にか私の心の拠り所になっていました。

そしてそんな日々にある時変化が訪れました。

学校終わりの時間、他にする事もなかったので、いつの間にか結構書道が上達しており、それに伴いある変化がありました。

ある変化

日々色々改善を重ねつつ書道に特化してきた結果、なんと高校2年の時に、県で最優秀レベルの実力に到達していたのです。

私は年に1度の、県の高校生の中から全国大会行きの数名を決めるための主要な大会で、なんと最優秀賞に選ばれたのです。

(3位までに入選すると全国大会に行けるが、1位通過できた)

不登校をバネに全国大会出場

全国大会行きへの切符

当時まさか自分が選ばれると思っておらず、名前を呼ばれた時は状況が飲み込めませんでした。(でも当然と言えば、当然なのかもしれません。それだけに特化していたようなものですし)

つまりは他の物を捨てた末、あれだけ長い時間をかけた書道は、石川県代表で全国大会に出場するレベルにまで到達していたのです!

全国大会の時の写真

自分が成果を出せるような得意分野

「自分が成果を出せるような得意分野」を突き詰めた結果、それが報われた最高の経験、私にとってはそれが後にも繋がる大きな自信となりました。

茨城で開催された全国大会では、各県からの代表となる高校生が集まってきており、私はその空気感に圧倒されました。そして、その時の交流会や空気感に非常に興奮していました。

大会は各ブロックごとにテーブルに分けられ、「水戸市」と言うことで、みんなで記念品の作品を作ったりして交流しました。また、当時顧問の女性の先生と二人で水戸を観光したのも良い思い出です。

(全然関係ないですが、今はその先生は風の噂で結婚して幸せに暮らしているという話ですが、とても可愛らしくて素敵な先生でした)

あとはその先生と二人で特産品を食べたり、納豆味のお菓子を食べたりして…色々楽しかったですw

また、その当時の顧問の先生方や相談室の先生、当時の友人のサポートや「いつでもおいで」「いつでも相談してね」といった声がけは、辛い状況だった私にとって心の拠り所であり、大きな支えでもありました。振り返ってみても私はあの時の人々に非常に感謝しています。

報われたと言う経験

正直に言うと、この大会の審査の時も私より字が綺麗な子が何人もいました。

でも私のように元々の才能がそんなにある訳ではなくても、粘り強く分析し、改善を重ね努力すれば、報われるのだと身をもって体感した、非常に大きな出来事でした。

そこから私はコツを掴んだのか、大会に出ると大抵それなりの賞を安定してもらうレベルになっていました。最終的には高校生活最後の卒業式で部活動功労者として表彰され登壇しました^^

教室への復帰

その経験が自信となり、私は教室に戻れるようになりました。その後文化祭でクラスの横断幕の字を書くよう依頼されたりと、今まで自分が努力してきた成果が報われた事、またそれが誰かの役に立ったという経験は、他の何に代え難い本当に嬉しい経験でした。

あと、今は学生時代の「部屋にこもっていた反動」と「全国大会での茨城の楽しい思い出」の事もあってか、旅行大好き人間になってしまいました。(関係ないか…?)

きっとあの時、ひねくれたまま無為に毎日を過ごし、勉強も部活も両方とも中途半端なままであったなら、このような全国大会での楽しい思い出や、あの時の全国大会での景色を見られることもなかったでしょう。

依頼最悪な状況の中でも自分の武器を見つけ、どう時間を使うと後々良い結果になる可能性があるのか、そういう考え方をするようになりました。

2つ目の大きな挫折

仕事へのつながり

でも正直なところ、この書道の成果の一方で私の大学受験勉強の成績は惨敗していました。

もっと勉強にリソース割いていれば、もっと良い大学に行けたのかなと思い出すことも無いと言えば嘘になるかも..。

でも、あの時の私は周りのみんなのように、ちゃんと学部調査をしたり、ちゃんと勉強するほどの余裕がありませんでした。

親の説得と進学

その後成績が改善する事もなく、「公務員思考の強い親」の意見もあり、なんとか進んだ教員養成系の国立大学は、結局途中で辞めてしまう事になります。

弟が一人おり、たまに勉強を見てあげたりと、教えること自体は非常に好きでした。

教える事自体は結構好きだったものの、勉強同様ロクに学部調査もちゃんと実施せず、というかそんな余裕もなく

ふわっと決めた「将来教員かな〜?」というふわっとした希望は、あまりにふわっとしていたため、まあ…とにかくふわっとしていたのです。

ふわっとしていたため、「これだ!!」という別の強い興味が心に生まれた瞬間、「将来教員かな〜?」というふわっとした考えは、瞬殺で吹き飛んでしまいました。

プログラミングとの出会い

プログラミングと情報工学

なんとある時、たまたま大学の授業で小学生向けのプログラミングの授業があり、そこから私は次第にプログラミングへ興味を持つようになってしまったのです。

最初は簡単な「Scratch」というパズルゲームが始まりでしたが、私はそこから次第にプログラミング関連の本や動画を見るようになりました。(元プログラマーの某実業家の本とかも)

いつしか頭の中にあった「教員になる」という志望は消え去り「プログラマー」になろうという考えが大きく占めるようになっていました。

そして、次第に情報工学の方面に進みたいという考えが大きくなっていってしまいました。

どうするのか?

私は自分の気持ちが一時の感情ではない事を確かめるために、自分にある制約を貸しました。

「この本を1冊読了できたら、この想いは一時的なものではない!だからこれを終えられたら、私は転学しよう」

そう決心して、1冊のプログラミングの本を読了できるほどに、モチベーションが維持できれば転学することに決心しました。

苦しんで覚えるC言語

その本の題名が「苦しんで覚えるC言語」です。

あなたはご存知でしょうか?
私によっては思い入れの強い1冊です。

なぜなら、私が初めて買った、ガッツリとしたプログラミングの本だからです。

最初のページを読んだときは、苦しいというよりも「英語の構文」のような感じだな〜という印象でした。

そして、環境構築や1文字1文字本の通りに入力して、実行して画面が変化する…この1連の作業で非常にワクワクしていたのを覚えています。

自分が入力した通りに画面が動く…それが私にとってはクイズを解いているようで、とてもクリエィティブで興味深いものでした。

そうこうしているうちに、私はいつの間にか「退学届」を出すまでになっていました。

結論として私は、国立大学を中退しました。

国立大学を中退

2度目の挫折

そしてなんと…。

その後にもまた、大きな挫折を味わうことになるのです。

なんと、大学中退が新卒での就活にも悪い方向に作用してしまったのです…。

中退後、情報系の専門学校へ進んだのですが、地元の大手日系企業の大卒枠の求人にて(当たり前ですが)大卒ではない事を理由に落とされてしまいました…。

大卒ではないので、書類選考してもらう「以前」の段階の自動フィルターで落とされてしまっていたのです…。つまり、プログラミングへの強い好奇心と前向きな気持ちと渾身の想いで書いた書類は、担当者に見てもらえてすらなかったわけです。

多分採用エージェントサイトの裏側の自動の仕組み?で落とされていたのかな?

就職活動での大きな挫折

一度のミスも許されない

私はこの「一度のミスも許されない」という就活のシステムで、再び大きな挫折を味わうことになってしまいました。

多くの日系企業が注目していたのは、私がどんな思いで書道を続けてきたか、どうやって失敗から立ち直ったか、どのような経緯で心の底から面白いと思えるものに出会えたか、なんてことではありません。

注目していたのは、いかに失敗がないか、いかにマイナスポイントがなく目立った欠点がないか、ということでした。

つまりは、書道での実績・プログラミングへの興味なんてのは、それらの企業にとっては価値がなくて、形としては「中退」、つまり私にとっては、自分のやりたいことに出会えたという好機が、企業にとっては大きなマイナスと捉えられてしまったこと。

私は、自分の考えが理解されなかったことに対し、悲しい想いで日々泣いていました。

仕事の請負

そこで、自分で色々検討しました。

フリーランスになり、自分で何か仕事を請け負ってみるのはどうか?等色々考えました。

その時必死にWEB制作やデザインの勉強もして某クラウドソーシングサイト等で色々仕事を請け負ったりもしてみました。※実例はこちら

この時、自分の努力してきた成果が誰かの役に立ち、誰かの問題が解決されたという幾つもの経験が嬉しく、私は夢中で仕事とデザインの勉強をしていました。

※ちなみに今でも当時のアカウントは残してあるので、ご興味あればこちらへどうぞ。

(名前は違いますが私です…。真摯に対応してきたので、「色んなことに感謝の気持ちでしかありません。」「更に細かい部分の変更やトラブルにも対応してくださいました。」等数々の感謝の言葉をいただくことができました。また落ち着いたら副業として再開するかも…?)

甘い考えと生活苦

そして続きですが…。

でもそんな甘いことはなく、上記のサービスで請け負う金額は非常に安く到底生活できるレベルではありません。バナー1つ納品で1,500円とかの案件もありました。

生活苦のレベルです。

でもこの時の知識がこのブログ運営にも繋がっているので無駄ではなかったのかな。

決意したこと

数々の失敗を重ねた末に思ったのが、

「このままではダメだ。以前落とされてしまった会社の方から魅力的だと思われるような自分になろう。」

そう考えた末に選んだのが、実際に手を動かして技術を身につけることができる会社への就職でした。

地元の大手企業は、設計はやるものの実際の開発は外注している傾向も高く、プログラミングが書けた上で設計もできた方が需要が高く、再挑戦もしやすいと考えたためです。

入社した実家近くの地元の会社では、PHPやMySQL等をフレームワークなしに素で触る機会が沢山あり、本当に勉強になることが多かったです。

素のPHP

素のPHPを触っていたおかげで、便利なフレームワークの裏側でどんな関数が動いているか等もある程度予想できるようになりました。

地方の会社ながら、東京の最先端の技術を使用しており本当に良い経験になったと思っています。

(関係ないけど、東京⇆地方の開発はニアショア開発っていうんですね。最近知りました)

モダンな技術の習得

そこで2年在籍し素のPHP+MySQLを触った末に、

「次はモダンな技術を身につけよう」と決意し、モダンな経験が積めるフルリモートの都内の会社へ転職(現職)しました。

具体的には書けませんが、業務で数々のモダンな開発言語を使用しています。

更なる技術の習得

「以前落とされてしまった会社の方から魅力的だと思われるような自分になろう。」

と決意してから現在に至る3年間まで、本当に色々積極的に開発業務に携わってきたと思います。

得た技術スタック

専門学校含めると5年/実務3年のPHP、MySQLの経験を軸とし、フルスタックエンジニアとしての経験、テックリードの経験、モダンな言語の経験(Nuxt、Vue、Ruby、Rails、CoffeeScript etc…)0→1開発の経験、API設計、DB設計等「次はこういう事をやりたい!」と上司や周囲の人々に発信し続け、色々な業務・活動に積極的に携わってきました。

※その他、Docker、Linux、AWS、GCP等も。その他英語を使った業務経験もあります。

そして、現在に至るという感じです。

2つの挫折経験と得たもの

高校時代の勉強での挫折経験や、就職での挫折経験がなければ、多分ここまで積極的にやってこなかったと思います。

自分には大きな失敗経験がある。だからこそ、それを補えるだけの努力をしよう。また、自分の挫折経験を他の人にも味わって欲しくないと思っていて、そういう人の支えになれる存在にもなれたら良いなと思う。

そう思いながら努力を重ねてきました。苦しい経験がなければ、おそらく努力してなかったと思います。だから挫折はある意味、自分にとって必要なことだったのかもしれません。

特技・強み

以上の事を踏まえた上での自分の強みは、技術やクリエイティブな事が好きなのはもちろんとして、「挫折した時や何か問題が生じた時にも、前向きに粘り強く努力できること」「できない人の気持ちに共感できること/挫折した人の痛みが本当によくわかること」なのではないかなと思います。